二宮尊徳 花火

花火大会が開催されているのは産まれた地ではない?

栃木県で花火大会が開催

花火大会といえば二宮金治郎像として小学校時代に校庭で毎日目にしていて馴染み深い人が実際に多いのではないでしょうか。

栃木県真岡市では「尊徳夏祭り」という二宮尊徳の名の入った花火大会が行われます。

二宮金治郎(尊徳)の名は知っていても実際に何を行った人なのかご存知でしょうか。

現代の神奈川県小田原市で生まれた彼がなぜ栃木県真岡市の花火大会の名に残っているのでしょうか。

花火だけでなく詳しく二宮尊徳の生涯をみていきたいと思います。

この男は天明7年(1787年)、現在の神奈川県小田原市にあたる相模国足柄上群栢山村に比較的裕福な農家の息子として生まれました。

しかしながら度重なる酒匂川の氾濫により父の田畑も流されてしまい、荒廃した土地の回復ままならぬうちに心労がたたり両親が相次いで他界。

この男は伯父の万兵衛の家に預けられ、そこで才を発揮します。

伯父の農作業を手伝う傍ら、荒れ地に捨て稲や菜種を植えました。 毎年その収穫量は増えていき収益をあげることで、成人して間もなく生家の再興を成し遂げます。

金治郎の基本にあるのは「報徳」と言われる思想ですし、花火大会だけでなくそういったものも残っています。

栃木の花火大会はあまり知られていない?

全国的にも知名度が低い花火大会

報徳思想とは、何事にも無駄なものは無く、一般に悪いこととされることにも必ず「徳」すなわち潜在的な長所があるという考えです。

例えば争いには争いの徳があり、借金には借金の徳があると考えます。

「災い転じて福となす」という言葉のように、一見して災いであっても徳を見つけてその利を生かすことで、更に大幅にプラスとなるという考えが報徳思想なのです。

二宮尊徳はこの報徳思想に基づいて荒れ地を再建しました。

花火大会できないくらいの荒れ地の水たまりを耕し、捨て稲を植えることで米を収穫したのです。

生家の再興後は地元で地主経営を行います。

一方で小田原藩で奉公人としても働き、家老である服部家の財政建て直しを行うことでその才は広く知られるようになります。 結果的には二宮尊徳は五常講という貧しい藩士を救済する金融互助組織を設立するなど活躍しました。

やがてその評判は藩主の大久保忠真の耳にもすぐに届きました。 身内の旗本宇津家の地行所であった下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の財政再建を詫されまして、期間は苦節10年の末に見事に成功を納めます。

花火大会の尊徳夏祭りの開催予定日は?

花火大会のスケジュールをチェックしましょう

具体的に桜町で二宮尊徳が行った事業とは、荒れ地の開発、堰や堀を作り水を確保すべく灌漑治水整備、または道路や橋の整備など今でいうインフラ整備またライフライン整備がまず一つ。

また、作物の育ちの悪い田畑を掘り下げて田畑へ生まれ変わらせ、凶作に備えて食物を確保するという事前準備の意識を作りました。

これにより天保4年の凶作や天保7年の凶作時には事前に確保しておいた穀物により乗り越えることができています。

また、二宮尊徳は花火大会が行われる場所の隣村からの移住や婚姻を推奨して人口増加をはかりました。

そして働くモチベーションをあげるため、よい仕事をした農民には褒賞を与えました。

また、この時代には一般的だった借金の返済にも力をいれ、全額を返済した者には褒賞を与えるという策を取ることで意識改革をはかっています。

この時、尊徳は毎日朝4時に起きて夜は0時過ぎに寝て、誰よりも精力的に働いていたと実際に言われています。

このようにインフラからライフライン、人民の意識改革を整えることにより、10年の歳月を経て桜町は立派な町づくりがなされました。

その評判は広く知れ渡り、多くの領地や村から復興の依頼が尊徳の元へ届き、安政3年(1856年)に70歳で生涯を閉じるまで600か所もの地が報徳思想の手ほどきを受けたと言われています。

そして桜町のあった栃木県真岡市では現在でも尊徳への尊敬の意を込めて「尊徳夏祭り」という大花火大会を行っています。

この花火大会は大型花火を中心に1万発を至近距離で見られると評判です。

尊徳の指導により町づくりがされた土地で尊徳を思いながら眺める花火は格別なのではないでしょうか。