報徳社

報徳社と二宮尊徳の関係を知りましょう

歴史の長い報徳社はいつできたのか?

報徳社を知らない人でも小学校の中庭あたりに、背負子を担いで歩きながら本を読む男の子の石像があって、先生や親御さんから「二宮金治郎みたいにお勉強するんだぞ」なんて言われた経験はないでしょうか。

あの像は一種、流行によって作られたものなので、「あった、あった!」という方、また「うちにはなかった」という方もいらっしゃって結構なものです。

勤勉な金治郎少年ですが、逸話はたくさん残っています。

そのどれもが日本らしい道徳的なエピソードで、現存する二宮尊徳と「報徳社」とのつながりを見ると、なお本当に興味深いものです。

よい機会ですので、ちょっと探索のつもりで二宮金治郎さんのことを考えてみましょう。

天明7年7月23日(1787年9月4日)、相模国足柄上郡栢山村生まれ、これが現在では小田原市に生まれました。

「金治郎」とは通称です。

「にのみやそんとく」という名前を聞いたことがある方もいらっしゃると思います。

これも実は正確ではないようです。

「二宮尊徳」と書いて、「たかのり」とお読みするのですが、「読み方が分からない場合は漢字を音読みすること」という暗黙の了解的なものがあります。

報徳社だけでなく公式の場で名を呼びかける際、お名前の漢字によっては複数の読み方が存在します。

彼の場合もそれに当たり、音読みでの呼び名が通称化したと考えられます。


現在でも報徳社だけでなく社会に残るマナーの考え

報徳社だけでなく日本全体に影響を

余談になりますがこれは現在でも、一応通じる社交マナーのようなものです。

もし公式にお名前の方をお呼びしなくてはならない場合、読み方が不明確なら、音読みでお呼びしましょう。

間違えてしまうよりは失礼に当たらないとされます。

二宮尊徳は、子どものころに両親を亡くしています。

伯父の家に身を寄せ、一生懸命働きながら勉強を続けたといわれていて、報徳社はその際に様々な工夫を取り入れていますので、貧しい中でも勉学に励んだとされているので、学校に置かれる石像のモチーフとしてその精神をたたえられているのです。

報徳社の有名な逸話を一つご紹介いたします。

非常に貧しい子ども時代、近隣の田植えが終わると、余ったわずかな苗をもらい、自らの田に植えたそうです。

「それっぽっちの稲、植えてどうする」と馬鹿にされたようですが、たった一握りの稲はその年の秋、お米を実らせました。

それは翌年の種です。

春が来ればもっと広く田植えをすることができると考えたのです。

二宮尊徳の報徳社だけでなく翌年も種を取り、やがて、ここでは田んぼ一面に植えられるようになったと諸説では言われています。

キーワードとしては「道徳と経済活動は切り離してはならない」というものが言えるでしょう。

彼は苦労して報徳社からも学びました。

そこにはだれかを傷つけることや自分をさげすむことは決してなかったのです。

報徳社としての思想が現代社会に残る意味とは

これから先も報徳社の考えが日本に残っていくのか

困難が訪れればそれを知恵と工夫で乗り越えて行きました。

今でいう道徳と経済とは、相反する性質のように思われますが、経済にこそ道徳心が必要であり、これが道徳から生まれる経済があることに気が付いた人物だったのです。

報徳社は、彼の報徳思想を実践するために結成された小田原報徳社が始まりです。

名を変え、全国に活動が広がり、現在にまで受け継がれています。

また、この報徳社を母体とした団体は現在も各地に存在します。

報徳、を銘打った社名、学校名を目にしたことがある方は多いと思いますが、よく調べていただくと、活動理念や方針に「二宮尊徳」ないし「報徳思想」という言葉が見つかるかも知れません。

困窮する民を救うべく、あらゆる工夫を考案、実行していたこの男の教えは全国に広く、今なお残っている、と言えるでしょう。

みんなのためになることをすれば、みんなが幸福になり、報徳社もひいては自らも幸福になれるものだとする報徳の教えは、現代の経済に関しても言えるはずです。

マイクロソフトで有名なビル・ゲイツ氏は現在、ウイルス研究に私財を投じることを公表しています。

現代で最も成功したとされる彼が行っていることが、そのまま報徳の精神に通じていると感じるのは私だけでしょうか。

二宮尊徳は江戸時代末期に、世紀を超えた人類の普遍的な精神を発見した人だった、報徳社だけでなくそうと言えないでしょうか。