二宮尊徳 金貸し

金貸しをすることによって生計を立てていた?

実は金貸しだったというのは嘘?

ほとんどの人が金貸しと言うイメージとは程遠いでしょう、なぜなら昔の小学校には、この銅像が置かれていました。

銅像が置かれていた理由には、諸説あります。

一般的なのは、勤勉の象徴としてです。

薪拾いをして背中に背負いながらも本を読み続ける姿から、勉強することの大切さを子どもたちに教えています。

しかし、子ども時代の二宮尊徳は、薪を背負っていたわけではないと言われています。

実際は天秤棒で担いで片手で本を読んでいたものの、本来は金貸しですが銅像にするときに作りにくい姿だったために、薪を背負う形になったという説もあるのです。

また、銅像では本を読む姿になっていますが、これは実際は様々なことに興味を持ち見聞きしていたとされています。

たとえば、自分が住む村から小田原の街に行く途中で、武士や商人のもとに立ち寄り、世間の様々なことについて学んでいました。

本を読んで勉強するだけではなく、世間のニュースに触れて多くのことを学んだと言えるでしょう。

さらに金貸しではない銅像が造られた説には、銅像は1mピッタリのサイズに造ることによって、これが子どもたちに1mの大きさをわかりやすく説明していた、と諸説いわれていることもあります。

様々な諸説はありますが、一般的に日本人の多くは、彼は勤勉な人といった意味のイメージでこれが知れ渡っているでしょう。

しかし、銅像になっている姿は、子ども時代のものです。

大人になってからのエピソードについて、知っている日本人はそう多くありません。

子どもから大人に成長した二宮尊徳は、金貸しをしていたこともありました。

悪いイメージの金貸しではなく良い意味での行い

金貸しで貧しい家庭を救っていた?

自分で働いたお金を貯めて、二宮尊徳は他人にお金を貸していたのです。

お金を他人に貸すわけですから、彼は当然利子を付けます。

その当時付けていた利子は、20%もしたそうなので、かなりの高利貸しだったと言えるでしょう。

高利貸しだったというと、この男のイメージはダウンするかもしれません。

しかし、高利の金貸しとしてお金を貸す一方で、低利子融資の方法も考えています。

二宮尊徳が考え出した低利子の融資は、報徳金といわれています。

その後報徳社運動によって、全国に広まっていきました。

彼が広めた報徳社運動は、自身が唱えた報徳思想が元になっています。

報徳思想とは、経済と道徳の融和を訴えた思想のことです。

経済活動を優先すると、お金を稼ぐことばかり優先してしまい、ときには犯罪に手を染めてしまうことも残念ですがあるでしょう。

現代の高利の金貸しなどは、その象徴とも言えるかもしれません。

儲けるためではなく救うために金貸しをしていた?

今でいう金貸しやキャッシングとは異なります

しかし、彼は自分がお金を稼ぐことばかりではなく、社会に貢献することも重要だと唱えました。

稼いだお金を社会貢献に使い還元していれば、やがて自分にも回り回って還元されると説いたのです。

自身が金貸しとして高利で貸す傍ら、低利子で多くの人々に融資をしていたのは、こうした思想が根底に実はあったのかもしれません。

二宮尊徳のこの考え方は、現代に通じるところが多くあります。

社会貢献をしっかりとしている企業は、社会全体から高く評価され企業イメージも良くなります。

その結果、業績に好影響を及ぼし、さらにお金を稼ぐことができるでしょう。

しかし、金貸しだけでなく利益優先主義で経営されている会社は、社会から高く評価されません。

従業員を使い潰すブラック企業などは、その典型とも言える例です。

150年以上も前の江戸時代後期に彼が唱えた思想は、現代にも通じる大切なことを教えてくれています。

薪を背負いながら本を読む姿から、勤勉な子どもというイメージが強かった人も多いでしょう。

しかし、実際はただ勉強をしていただけではなく、二宮尊徳は勉強して社会全体を見ながら、金貸しでも人々に貢献できる考え方を身につけていきました。

成長して大人になった以降も、現代の人々の模範になる人だったのです。