二宮尊徳 子孫

血は一体どこに子孫として引き継がれているのでしょうか?

子孫は有名人にはなっていない?

子孫まで代々繋がる印象の銅像といえば、薪を背負って本を読んでいる像でおなじみです。

貧しい農村に生まれた勉学好きの少年で、家の仕事を手伝いながらも独学で寸暇を惜しんで勉学に励んだ努力の人というイメージをずっと抱いている人が多いのではないでしょうか。

しかしながら、子孫はどうか知りませんが実際の二宮尊徳の生涯はそのイメージとは少し異なります。

というのは、金治郎は実は農家としては裕福な家に生まれています。

ただし、彼は5歳の時に川の氾濫により、一家の住む現代で言う神奈川県小田原市栢山一帯は流されてしまい、親の所有する田畑も瓦礫と化してしまいます。

復興ままならぬうちに、14歳の時に両親は他界し、尊徳は伯父の万兵衛の元へ身を寄せ、家業を手伝いながら合間には荒れ地を耕します。

その努力の甲斐あって、荒れ地は少しずつ時間を掛けて実を結び、徐々に収益があがり、二宮尊徳20歳の時に生家の子孫へ繋がる復興に成功します。


子孫は現在日本で活躍しているのか?

子孫は現在何をしているのか?

その後は地主経営をすると共に小田原藩家老・服部家へと奉公に出向きます。

その服部家の財政建て直しを成し遂げ、小田原で二宮尊徳の名は広く知られるようになります。

そして藩主大久保忠真の耳にもその評判は入り、大久保家の身内である旗本宇津家の知行所である下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の財政再建を依頼されます。

10年の歳月を経て桜町を見事復興させ、金治郎の名は増々広くいきわたるようになりました。 子孫から諸領諸村から財政再建の依頼が来るようになり尊徳は尽力します。

晩年は幕臣に引き抜かれ、日光神領など幕府領の再建にも携わります。

70年の生涯で尊徳の教えの元で再建された地域は600とも言われています。

では二宮尊徳はどのようにしてここから財政再建を行ったのでしょうか。

まず根底にあるのは「報徳思想」です。

報徳思想というのは、どのようなことにも徳(長所または潜在的な力)があるというものです。

子孫とそれぞれの徳を掘り起こすことで、このように結果的に生産性の向上や生活の安定へとつながるという考え方です。

具体的に言うと、川の氾濫により荒れ地となってしまったのです。 水浸しの畑を耕すことで田畑にすることができるのです。

子孫からて稲と言われる部分をその田んぼに植えることで収穫へとつながるという方法を地道に続けることで、結果的には生家の再興にここでは成功しています。

子孫はけして有名ではなく知られていない

日本にも子孫だけでなく考えがずっと残っています

また、二宮尊徳の財政再建の根底は「行動力」にあるとされています。

上に述べた通り、多くの日本人はこの男というと「寸暇を惜しまず勉強した人」というイメージを抱いています。 尊徳の7代目子孫である中桐万里子氏は、二宮金治郎の像は本を読んでも実践を忘れるな、一歩踏み込むことの大切さ、口だけ頭だけの人間になるなというメッセージを伝えているのだと言っています。

実際に尊徳は誰よりも早く起き、寝るのは深夜でした。

毎日4時間ほどの睡眠しか取らずに村の隅から隅まで視察し精力的に町おこしを行っていたと言われています。

具体的には荒れ地を耕し田畑を増やし、灌漑事業を行うことで治水を安定させる、橋を作るなど交通の整備といったいわゆるインフラ整備や人口増加推進しました。

子孫も農民同志でよく働いた人を選び出し褒賞を与えることでやる気を引き出したり、貧困者の救済も行っています。

住みやすい街、市民に元気を与える街、と現代の街復興にも通じる近代的な意味や思想であることがわかります。

そして二宮尊徳の偉業は子孫へと受け継がれます。

尊徳の死後、嫡男である尊行は事業を受け継ぎ日光山領89村の再建に尽力しています。

そして尊行の長男である尊親は、報徳農法を民間に進めるために冨田高慶を社長として設立された興復社の副社長に就任しています。

現代でも7代目子孫である中桐氏が尊徳の思想を講演などで広めており、没後160年が経つ現代でも尊徳の遺志は子孫により語り継がれています。